Friday, August 31st, 2007
愛するものを歌うはよい。しかしああ、
あの底深く隠れ住む
罪科をになう血の河神を唄うのは、
それとはまったく別なことだ。
恋する乙女が遥かから見分ける愛しいもの、
かの若者みずからは、その悦楽の王について何を知ろう。
だがこの若者の眉の弧線を、かくも期待に張りつめさしたのは、
乙女よ、おんみではなく、ああ、またかれの母でもなかったのだ。
おんみゆえに、慈しみ深くかれを感じ取る乙女よー
おんみゆえに、かれの唇はより豊かな表情に
たわんだのではなかったのだ。
朝風に似て、ゆるみも軽くすがすがしい乙女よ、おんみの出現が
かれをかほどまでに激動さしたと,おんみはまことに信ずるのか。
まことにおんみによってかれの心は驚愕した
けれども、もっと古くからの強い襲いが
その感動に触発されて彼の中へと殺到したのだ。
かれを揺すぶれ、目覚ませよ
しかしおんみはかれを暗いものとの交わりから完全に
呼び覚ますことはできないのだ
たしかに彼は脱出しようと欲している
重圧の鎖を切って、おんみの懐かしい心に身をよせ、
そこを隠れ家として、彼は自己を取り戻し自己をはじめる
だが、かつてかれが自己をはじめたことがあるだろうか
母よ、あなたがささやかな彼をあらしめたのでした、
彼をはじめたのはあなたでした
新しい存在として彼はあなたに守られました
あなたは彼のその新しい眼にうなずきかけながら、
やさしい愛の世界として身をかがめ、
異種の世界の脅威をふせいだのでした。
ああ、あなたがほっそりとしたそのお姿をみせるだけで、
沸き立ちかえる混沌も
かれには手をつけることができなくなったのです。
ああ、あの歳月はどこへ去ったのでしょう
そういうふうに多くの不気味なものを
あなたは彼の眼から隠しました。
怪しい限りの夜の部屋から敵意をうばい、
庇護の場に満ちたあなたの胸にやどる
より人間的な空間を
幼いものに襲いかかる暗夜の空間に混ぜあわしたのです
あなたが燭台の火を運んでこられると、
闇の中に光が置かれるというよりは、
わたしのそば近くにあなたの存在が灯るのです
そしてそれは親しみに満ちて輝きつづけてくれるのでした
家のどこかがギイときしみでもしようなら、
あなたは微笑みながらその理由を話してくださいました
天井がいつ騒ぐのか、ずっと前から
知っていらっしゃったかのように
あなたが立ち現れるということが,それほど多くのことを優しくも
しとげてくれたのです。子供を襲う運命の暗影は
すっぽりとマントをかぶって戸棚のうしろへ隠れました。
そして彼の不安にみちた未来はつと逃げて
カーテンの襞々に身をくるんだのでした。
そして彼は安心してまぶたを閉じ、
しだいに眠りの訪れて来る夢うつつの境へ
あなたの軽やかな姿の甘美さを溶かし込み、
しみじみとそれを味わいながら
自分はしっかり護られた身だ、と思ったのでした。
しかし奥深い内部では?
幼いものの内部に、幾世代を貫きやまぬ
本流を何びとが防ぎとめることができたでしょう
ああ、眠りつつある彼の内部には、
なんの見張りもなかった
眠りつつ、しかも夢におそわれ
しかも熱にうなされる
怖しいものらとかかりあう
新参の者としてためらいながら巻きこまれていく
いよいよ伸びはこる心象の蔓草ともつれあいからみあって、
早くも奇異なさまざまな生の図柄が
呼吸もふさがる程の繁茂が
野獣のような疾駆の形姿が
そこに現出する
いかにかれはそれに身をゆだねたことか
愛したことか
愛したのだかれは
おのが内部を、おのが内部の荒野を、
その鬱林を
そこには崩れ落ちた岩塊が横たわり
かれの心の若木は、その亀裂から薄緑して
頭をのぞかして震えているだけだった
愛したのだ、この風景を
しかもそこからかれはさらに進んだ
おのれ自身の根にそい、さらにそれを突き抜けて
かれ自身の小さい生誕を遠く超えた
強力な期限の場に入る。愛しながら、
かれはこのより古い血のなかへ、
峡谷の底へ向かった。
そこにはあの恐ろしい怪獣が、
われわれの祖たちの血に飽きてよこたわっている。
そしてそこに住むののすごい全てのものは、
すでにかれ、この若者を知っていて、目配せした
かれの気持ちはとうによく知っているとでも言うように
いや、怪獣は微笑すら送ったのだ。。。母よ、
あなたでさえこれほど甘やかな微笑を見せたことはなかった。
どうしてかれはその怪獣を愛せずにいられたでしょう、
それがかれにむかってほほえみかけた以上は。
あなたへの愛に先立って
かれはそれを愛したのでした
なぜならあなたが彼を身ごもっていたときから、
その怪獣は胎児の彼をうかべている液体にすでに
溶け込んでいたのですから
みよ、われわれは野の花のように、
たった一年のいのちから愛するのではない
われわれが愛するときわれわれの肢体には
記憶もとどかぬ太古からの受益がみなぎりのぼるのだ
おお乙女よ、このことなのだ、
愛し合うわたしたちがたがいのうちに愛したのは、
ただ一つのもの
やがて生まれ出ずべきただ一つの存在ではなくて、
わきたちかえる無数のものであったのだ
それはたったひとりの子供ではなく
崩れ落ちた山岳のようにわれらの内部の底いにひそむ
父たちなのだ、過去の母たちの川床の跡なのだー
雲におおわれた宿命、または晴れた宿命の空のもとに
音もなく広がっている全風景なのだ
このことが、乙女よ、
おんみの愛より前にあったのだ
そしておんみも、みずからは知らぬまにー
おんみを愛する若者の内部に
太古をいざない揺り起こしたのだ
すでにこの世を去った人々の感情が
どんなに激しくほとぼり出たことだろう
おお先の世の、女たちのおんみへの嫉妬
過去の男らの暗鬱な情熱が、
おんみを愛する若人の血管のうちに燃えさかる
死んだ子らさえ目を醒ましてまたも
おんみのうちに宿ろうとする
おお、ひそやかにひそやかに
昏迷の若人に優しき様をしめせ。
おんみの頼もしい日々の仕事のいそしみを
園近くかれをみちびけ。
暗黒の夜々の重みに
打ち勝つ力をかれにあたえよ
ひきとめよ、かれを
ドゥイノの悲歌ーリルケ
手塚 富雄 訳

